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2016年4月21日 (木)

それもまたちいさな光

図書館で借りた本>

角田光代 著
『それもまたちいさな光』

ラジオ用に書かれた企画小説で、
2011年TBSラジオで放送されたそう。

『35歳になってお互い独り身だったら結婚しよう』と約束した
主人公と幼なじみを軸に
その周囲のアラサー女子達のさまざまな恋の在り方が描かれてる小説。

ところどころに登場するラジオ番組が、
登場人物を意外な形でつなぎ大事な役割を果たしているし
パーソナリティーのエピソードも上手く絡み合って物語が進むのも面白かった。

どこかで誰かとラジオを通して同じ時間を共有しているって、
よく考えたらなんだか素敵なことだなぁ。と改めて思いました。

「・・・・しあわせって どでかい何かかと思ったけど、
そうじゃない、ちっこいことなんだなとか思うわけ・・・・・・」

「・・・百人が反対してもやめられない恋よりも、どうでもいい毎日をくり返していくこと、
他人であるだれかとちいさな諍いを続けていくことのほうが
よほど大きな、よほど強い何かなのではないか・・・・・・・・」

お~ぉ確かに!

どうでもいい毎日を一緒に繰り返せる相手と、
「ときめき」より大事なものを共有できる、、、、。

穏やかな日常を過ごして、同じ今を ともに記憶する。

それが結婚ってもの、かもね。

20160421

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コメント

mamaさん ど〜も^

>「・・・・しあわせって どでかい何かかと思ったけど、
そうじゃない、
>ちっこいことなんだなとか思うわけ・・・・・・」

そうですね〜
ときめきも必要ですが
年中時めいていると
体が持ちません。

一人で悟る事の方が自由で
自分さえ納得すれば言い訳ですから簡単ですね〜

二人暮らしは話し合いや譲り合いが必要ですが
社会性動物の人間には小さな幸せは必須条件です。

自由をあまり求めすぎると
孤独になります。
これは後で解る事が多いですが
より早く気がついた人は幸せですね。

★ビ~グルズさんへ★

>ときめきも必要ですが
年中時めいていると
体が持ちません。


あはは~~。本当に、体が持ちませんね

でも・・・
ほどほどに「ときめき」たいわ~~

 幸せという言葉を聞くたびに、「幸せはいつも自分の心が決める」という言葉を、思い出します。
 小さな幸せと、大きな幸せとは、どう違うのでしょう?
それは、幸せと不幸せの違いを議論することと似ています。
この世に、幸せと不幸せとが、本当にあるのなら、世界の人は全て、幸せな人と不幸な人の二つに分かれてしまiいます。小さな幸せと、大きな幸せについても、同じことが言えます。「貴女は幸せですか?」と聴く人がいます。その、聴いている人は、自分が幸せだから、そう聴くのでしょうか?不幸せだから聴くのでしょうか?「そんなことを、普段から感じることはありません」という回答が帰ってきたら、聴いた人は、その人の事を「幸せな人だ」と思うのでしょうか?「不幸せな人だ」と感じるのでしょうか?幸せという事を考えるのは、「正しい人生」と「間違った人生」という言葉を考えることと似ています。もし、「正しい人生」と「間違った人生」というものが、本当にあるのなら、世の中の人は、「ほとんどが正しい」とも言えるし、「ほとんどが間違っている」とも言えるのでしょう。
「ときめき」という言葉と、「小さな幸せ」という言葉を比べるなんて、私には馬鹿げたことだと感じられます。「幸せ」という言葉を何かと比較対象することは、「隣の家の芝生」と比べることと同じことだからです。「幸せ」とは、他人に聞かれたときに初めて考えるのが人間であり、「不幸せ」とは、いつも身近に感じているのが人間である。と言った人もいます。世界一貧しい大統領の、貧乏な人の定義で言えば、富める人、貧しい人、幸せな人、不幸な人、成功した人、失敗した人、正しい人生を歩む人、間違った人生を歩む人等は、一目瞭然に分かるともいえるし、どれがどうだとは全く分からないとも、言えますね。まして、「どうでもいい毎日」というものがあるのなら、「ものすごく大切な毎日」というものが、存在することになってしまいます。世の中の人は、ほとんどの人が、どちらかの毎日を過ごしているのでしょうか?「貴女の毎日は、どうでもいいものですか?」「とても大切なものですか?」と聞かれたら、人はなんと答えるでしょうか?
「百人が反対する恋」が出来る人は、大きな感動を経験出来るとても幸せな人であり、「どうでもいい毎日を送っている人」は、小さな感動すらない、不幸せな人だとも言えるでしょう。
 私は、いつも自分の心が決めるものだと思うのです。ほとんどの人間は、「幸せ」がこの世の中に存在すると理解していますが、「幸せ」の姿を見たり、「幸せ」を身近に捉えている人、いつも身近に感じている人は、ほとんどおられないでしょう。「貴女は幸せですか?」と、他人に聞かれたとき、初めて「私は幸せなのかしら?不幸なのかしら?」と考えるのではありませんか?
 人は、「幸せ」は絶対にその存在を信じられるものであり、世界のどこかに必ず存在しているものであり、求めればつかめるものである!という幻想に振り回されて生きる者なのかも知れませんね。
「幸せ」というものは、決して自ら人に近づくことは無く、問いかけても応えず、見ようとしても見えない、感じようとしても感じられない。それは、まるで「神」を考えることと似ている。それでも人は、「幸せ」も「神」も、その存在を信じることを、絶対にやめない。
のだそうですよ。

★歌姫さんへ★

私が考える「どうでもいい毎日」というのは
「どーでもいい」と投げやりに考える
「しょーもない毎日」ってことではないんです。


「いい加減」が、不真面目な、どうでもいい「えーかげん」って言うことではなく
「いい塩梅」の方と同じようにね。

「どうでもいい毎日」とは、、、そうですねぇ、、、
「凪な海」のようなものなんだと思ってます。

静かな海で、ただ、寄せては返す波の音が一定のリズムを刻む。
そんなイメージです。

「大切な一日」も「重要な一時」も「どうでもいい毎日」も
全てが同じように愛しい時間なんですよ。


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